2009年06月26日

多国籍軍がイラク国軍と警察により

多国籍軍がイラク国軍と警察により管理ができるまでに治安が回復したと認める県についてイラク政府へ治安管理権限が返還されている。これを治安権限の委譲(Transfer of Security Responsibility / control)という。2006年9月にイギリス軍管理下のムサンナー県から始まり、2008年9月に11番目として初めてスンニ派が多数を占めるアンバール県の治安管理がイラク政府に返還された[39][40]。

番号 年月 県 備考
1 2006年9月 ムサンナー県 イギリス軍管理下
2 ジーカール県 イギリス軍管理下
3 ナジャフ県 ポーランド軍管理下
4 マイサーン県 イギリス軍管理下
5 アルビール県 アメリカ軍管理下、クルド人自治区
6 スライマーニーヤ県 アメリカ軍管理下、クルド人自治区
7 ダフーク県 アメリカ軍管理下、クルド人自治区
8 カルバラー県 ポーランド軍管理下
9 2007年12月 バスラ県 イギリス軍管理下
10 2008年7月 カーディーシーヤ県 ?
11 2008年9月 アンバール県 アメリカ軍管理下、スンニ派
12 2008年10月 バービル県 アメリカ軍管理下、スンニ派[41]
英語の上達秘伝!
学べる東京の専門学校
休日の安いショッピング散歩
賢い消費者金融の見つけ方
おみくじ道のプロローグ
人材派遣の登録の仕方!
就職・転職ガイドの教え
美容サプリ情報案内
男道の格闘技、武術を学ぶ
全国制覇お笑い芸人誕生
特報・働くお父さんの求人情報
歴史の足跡魅力を紹介
アウトドアアイテムの紹介
旅行、観光は私におまかせ!
大冒険気になる仕事をチェック!
吉日の海外ツアー大作戦
めだかの探偵物語
ガイアの手術体験記
マザー離婚のタイミング
安い部屋探し
雑貨の世界紀行
家族でオートキャンプ

フセイン政権崩壊後、政権の中枢に躍り出たのが、これまで支配下に置かれていたイスラム教・シーア派勢力である。イラク戦争から5年を迎えた2008年3月に入ると、そのシーア派内で内部抗争が勃発。同派の強硬派であるムクタダー・サドル一派と政府との対立が表面化。政府軍とマフディー軍が、同月25日にバスラで衝突したのを皮切りに、クート、ヒッラ、バグダッドに拡大。ヌーリ・マリキ首相自身が陣頭指揮を執った、25日のバスラでの戦闘では双方合わせて31名が死亡した。26日にマリキ首相は、28日までのマフディー軍の武装解除を要求、一方のサドルも前日のナジャフでの声明で徹底抗戦の構えを見せている。27には両者の先頭でバスラ近郊の石油パイプラインが爆破された。また同日には、米国のジョージ・ブッシュ大統領がオハイオ州での演説で政府軍支持を鮮明にした。更に、同日深夜にはバグダッドで外出禁止令が発令された。翌・28日には政府軍に同調した米軍が南部・バスラのマフディー軍施設を空爆した。同日にマリキ首相は、マフディー軍の武装解除期限を4月8日まで延長すると発表した。30日にはサドル自身がマフディー軍に対し戦闘中止を呼びかけ、31日にはバグダッドの外出禁止令が解除された。

2009年06月10日

臨床医は症状によって気管支喘息を定義している

臨床医は症状によって気管支喘息を定義している。発作性の喘鳴、咳、息切れ、胸部の圧迫感(時間により程度が変化し、気管支拡張薬にて改善する)などが気管支喘息を疑う所見としている。病理学者は組織学的に定義を行っており、好酸球の浸潤や気道壁の肥厚、リモデリングによって特徴づけられる持続性の炎症と喘鳴としている。一方、生理学者は機序によって定義を行っており、多くの異なる刺激に反応して、過剰な気管支平滑筋収縮を引き起こす気道過敏性の状態を気管支喘息と定めている。生理学的な定義のうち特に重要なのが、運動誘発性喘息や吸入アレルゲンによる喘息、アスピリン喘息である。上記、歴史の項に述べられているようにいずれの定義でも再発性の気道過敏性と慢性炎症といった病態生理学に統合されると考えられている。慢性期道炎症によって気道過敏症となり、増悪因子により気道狭窄がおこり喘息症状が起こるとされている。 喘息患者にβ1受容体選択性の高くないβブロッカーを用いる場合、重篤な気管支収縮が起こる可能性があり注意が必要である。やむをえずβブロッカーを用いる必要がある場合は呼吸機能改善率の測定などを行い、気道過敏性が存在しないことを確認してから行うべきである。

2004年の試算で世界に3億人の喘息患者がおり、年間255,000人が喘息で死亡している[6]。また喘息死の80%以上は低?中低所得国で発生しており、今後10年間で喘息死はさらに20%増えるだろうと予測されている[2]。喘息の有症率は1?18%程度と国によって報告にばらつきがあるが、多少強引にまとめると先進国で5?10%程度、発展途上国では1?4%程度である。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

日本では1996年の統計で喘息の累積有症率(現症と既往の合計)は乳幼児5.1%、小児6.4%、成人3.0%(16?30歳では6.2%)である[7]。1960年代は小児、成人とも有症率は1%程度であったものが近年増加の傾向にあり、10年の経過で1.5?2倍程度増加している[8]。日本における喘息による死亡者数と人口10万人あたりの死亡率は1995年には7,253人(5.8)、2000年には4,473人(3.6)、2001年には4,014人(3.2)、2002年には3,771人(3.0)、2003年には3,701人(2.9)、2004年には3,283人(2.6)と、年々低下傾向にある(厚生労働省人口動態統計より)。死亡者の約半数は、重度の発作を軽発作だと思い適切な治療が遅れたあるいはされなかった事が原因であるといわれている。

2009年06月07日

トロワ条約

トロワ条約(フランス語:traité de Troyes, 英語:treaty of Troyes)は、1420年5月21日にフランスのトロワの大聖堂で調印された条約。百年戦争の戦局でイングランドを優位に立たせた条約で、フランス国王シャルル6世の死後、イングランド国王ヘンリー5世がその後継者になるとされた。

この条約の中でフランスの利益を代表していたのは、ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)であった。国王シャルル6世は当時既に発狂しており、1392年以来、もはや直接に国の統治をしていなかったからである。フィリップ善良公とヘンリー5世は、王太子シャルル、後のシャルル7世に対抗して同盟を結んでいた。

シャルル自身の「大罪」によって、自称王太子が後継者になる正当性は否定される。シャルルは1419年9月19日にフィリップ善良公の父、ジャン1世(無怖公)の殺害を命令したことを非難された。また、王妃イザボー・ドゥ・バヴィエールの不貞に関連したシャルルの出自の不当性についての噂がブルゴーニュ派によって吹聴されたが、そのような噂はシャルル6世を怒らせずにはいられなかった。
内職 引越し 美容整形 家具 審美歯科 ギフト スクール 地域情報 学習 海外 サプリ 開業 ダイエット 在宅 生活 審美歯科 結婚 老人 古着 セミナー おもちゃ パソコン 産業 理容 信越北陸 矯正 興信所 タロット キャッシング 老人 ぜん息 アクセサリー バイク 老人 贈答品 海外留学 墓地 学習 動物園 美容 近畿東海 サプリ クレジット 仏壇 探偵 懸賞 ぜん息 通信販売 整体 ファッション

シャルルは全ての称号を失ったが、ブールジュに逃れ、フランス南部の統治は維持した。その一方で条約の調印者たちは、ヘンリー5世と、シャルル6世とイザボーの娘カトリーヌの結婚を取り決めた。これによって、ヘンリー5世は唯一のフランス王位の継承者となり、摂政としてフランスの国政に携ることとなった。つまり、シャルル6世は自らの王位を婿、場合によっては生まれてくる孫に伝えることになったのである。

1420年12月1日、ヘンリー5世はシャルル6世、フィリップ善良公と共にパリに凱旋した。パリ大学と三部会はトロワ条約を支持した。

後に法学者たちは、フランス王位はフランス国王が意のままにできるのものではないと主張してトロワ条約を破棄し、シャルルに与した。これは百年戦争の発端となった議論と類似していた。

1422年8月31日にヘンリー5世は死亡し、続いてシャルル6世も同年10月21日に死んだ。ヘンリー5世の6ヵ月になる息子は、ヘンリー6世の名で「フランス王およびイングランド王」と宣言された。ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターがフランス摂政となり、ロワール川以北でシャルル7世に忠誠を尽くす最後の町オルレアンを攻囲することになる。


2009年04月23日

蛮社の獄

蛮社の獄(ばんしゃのごく)とは、1839年(天保10)5月に起きた言論弾圧事件。
蛮社とは、田原藩士渡辺崋山、高野長英、小関三英ら洋学者を中心に町医者・藩士・幕臣等有志の者が海防目的で蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会(しょうしかい)を、「蘭学という野蛮な結社」と国学者の側が蔑んだことによる。ただし、尚歯会自体への弾圧ではなく、尚歯会の関係者の一部が処罰された事件である(尚歯会主宰の遠藤勝助は処罰されていない)。

モリソン号事件を知った高野長英が「戊戌夢物語」で幕府の異国船打払令に反対したことを、大塩の乱で神経を尖らせていた幕府目付鳥居耀蔵が敵視し尚歯会に目をつけていた。また、鳥居が、尚歯会員である幕臣江川英龍と江戸湾岸の測量手法を巡って争った際に、渡辺崋山の人脈と洋学による知識を借りた江川に敗れ、老中水野忠邦に叱責されたこともあって、鳥居は政敵としても警戒していた。
SEM促進・転職関連マネービジネス検索エンジン
実益・生活関連みんなの住まい情報
包茎・インポテンツ関連健康・医学コラムCOM
ホシバナウェブお買い物サーチ
アンポンタン暮らしの学習総合
チケット予約・遊園地関連宿泊タウン総合
ポスト美容整形ガイド
老人ホーム・経営コンサルタント関連経済生活検索エンジン
ウエリントン暮らし上手情報
介護・予防法関連健康・医学倶楽部情報


逮捕と罰など
発端は「海外渡航をたくらんでいる者がいる」という尚歯会員による内部告発があったことによる。内容に信憑性が薄かったにもかかわらず事件化したことから、この告発そのものが鳥居による謀略と言われている。 渡辺崋山は逮捕、高野長英は自首した。小関三英は逮捕をまたず自殺した。同志の町人3人は取調中病死した。 「慎機論」などによる幕政批判の罪で渡辺崋山は伝馬町入牢ののち、国元蟄居(その後自殺)、高野長英は入牢となった。なお、「慎機論」は出版されてはおらず、家宅捜査時に草稿が発見されたものである。

幕府保守層や儒学者たちによる蘭学者に対する一大弾圧事件などではなく、尚歯会を敵視する鳥居が他の幕閣の容認のもと、単独で決行したのが真相である。また逮捕者十数名とはいえ、これは長らく、蘭学弾圧事件として捉えられてきたが、これは明治期の藤田茂吉『洋学東漸史』が、当時の自由民権運動との類推で事件を捉えたからである。

2009年04月22日

大モン口文化

大汶口文化(だいもんこうぶんか、またはだいぶんこうぶんか、大汶口文化、拼音: dàwènkǒu wénhuà : ダーウェンコウ・ウェンフア, 紀元前4100年頃-紀元前2600年頃)は、中国北部(華北)における新石器時代後期の文化である。大汶口文化に属する遺跡は黄河下流の山東省泰安市付近から多く見つかるが、黄海沿岸・渤海南岸から魯西平原の東部、淮河北岸の一帯にまで広がっており、隣接する安徽省、河南省、江蘇省からも若干数発見されている。

大汶口文化の名は、1959年に山東省泰安市岱岳区の大汶口(だいもんこう)鎮から発見された新石器時代の遺跡に由来する。1962年から発掘が始まり、1964年に大汶口文化と名づけられたが、後に出土物からこの文化が仰韶文化と同時期かそれよりも古いことが確認された。発掘は1974年と1978年にも行われているが、大汶口文化に関係するのは遺跡の層の中でも中間部分だけで、深い層は北辛文化(紀元前5300年 - 紀元前4100年)に、新しい層は龍山文化(紀元前3000年 - 紀元前2000年)に関係する特徴が見られる。大汶口文化の遺跡からはトルコ石・ヒスイ・象牙などでできた加工品、および陶器が多く発見されている。

大汶口文化は早期(紀元前4100年 - 紀元前3500年)、中期(紀元前3500年 - 紀元前3000年)、後期(紀元前3000年 - 紀元前2600年)と、大きく3つの時期に分かれる。初期においては、発掘物から見て階級差は大きくなかったと考えられ、出土する人骨の性別などから当時の社会は母系氏族共同体だったと推測されている。この時期は鬹(き)といわれる三足器(陶製の三本脚の調理器で、脚が長い)や紅陶でできた鼎(てい、かなえ、三本足の器)など多様な形をした陶器が特徴的である。また早期も終わりのほうになると土を盛った墳墓も多くなる。

マクロ ロード ナビビラ 地中海 フロー ワダン リグベーダ 探険隊 クロス テレキ シルエット メイン キュリーズ ファイト フロー ターキ 草競馬 ブロイ オフテン タオル ダイアリー ビルト ビヤマグ ビードロ ローシップ ウーマンパワー グルタチ ダクター ルテオリン マイムエ はだし ポルテ 百日紅 サイダー ミニカ プリンセス がんばる パーセント あばしり ショート スパル ましけ アジェンダ 氷河便利 シーベル フェイク アフタ フルーテ ドリンク トレンチ

中期に入ると出土する陶器は紅陶にかわり灰陶・黒陶が増え、量の大きさや文様・形の多様さが明確になる。また社会が父系氏族共同体へ移行し父系社会が確立したさまがみられる。

後期に入ると墳墓の中に木製の棺が現れる。大汶口文化も父系氏族共同体の末期に入り階層化が進み、副葬品のない墳墓がある一方で大量の副葬品が発見される墳墓もある。土器は灰陶・黒陶が主流となり、器の厚さは薄く精巧になってゆき、黒陶や卵殻陶(卵の殻のような薄さの陶器)を特徴とする龍山文化につながってゆく。

2009年04月05日

頼山陽

頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1780年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、漢詩人、文人である。芸術にも造詣が深い。また陽明学者でもあり、大塩平八郎に大きな影響を与えている。幼名は久太郎(ひさたろう)、諱は襄(のぼる)、字は子成。山陽は号である。また三十六峯外史とも号した。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。子孫の1人に中国文学者の頼惟勤(らい つとむ)がいる。

父の頼春水は幼い頃から詩文や書に秀で、明和3年(1766年)には大坂へ遊学。尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、大坂江戸堀北(現・大阪市西区江戸堀)に私塾「青山社」を開いてその居宅を「春水南軒」と名づけた。山陽が生まれたのはこの頃である。母もまた梅颸の雅号を持つ文人で84まで長命したが、ために息子・山陽に先立たれることとなる。

天明元年(1781年)12月、春水が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居。山陽は城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。春水が江戸在勤となったため叔父の頼杏坪に学び、18歳になった寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛し京都の放蕩仲間・福井新九郎(後の典医・福井晋)の家に潜伏する。しかし新九郎の家で発見されて広島へ連れ戻され、廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。『日本外史』の初稿が完成したのもこのときである。

謹慎を解かれたのち、やはり父春水の友人であった儒学者の菅茶山(1748 - 1827)より招聘を受け茶山が開いていた廉塾の都講(塾頭)に就任。1809年(文化6年)、山陽30歳のことである。が、その境遇にも満足できない山陽は学者としての名声を満天下に轟かせたいとの思いから2年後に京都へ出奔した。

文化8年(1811年)、32歳以後は没するまで洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父・春水が亡くなるとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。山陽は京都に在って営々と著述を続け、文政9年(1826年)には彼の代表作となる『日本外史』が完成。ときに山陽47歳。翌年には老中・松平定信に献上された。

山陽はその後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』等の完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年9月23日(1832年10月16日)、ついに卒した。享年53。山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという。京都円山公園・長楽寺に葬られた。広島市中区袋町に復元された旧居、京都市上京区東三本木に書斎の「山紫水明處」が保存されている。

著作 [編集]
司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。

『日本外史』は武家の時代史であるが、史実に関しては先行諸史料との齟齬が散見される。史書というより歴史物語と言うべきだが、幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。また「五書・九議・二十三策」にあたる政治経済論の『新策』は広島在住時の文化元年(1804年)に完成したが、のちにこれを改稿して『通議』とした。天皇中心の歴史書『日本政記』(全十六巻)は「三紀」に相当し、死後に門人の石川和介が山陽の遺稿を校正して世に出した。伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られる。

なお山陽は詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る?」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名。同作品は死後刊行された『山陽詩鈔』(全8巻)に収める。ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『日本楽府』(全1巻)がある。同書の第一は下記引用の詩に始まるが易姓革命による秦、漢に代表される中華王朝の傾きに対比して本朝の皇統の一貫に基づく、国体の清華を強調している。

日の出ずる処、日の没する処。
両頭の天子、皆天署扶桑鶏号いて、
朝已に盈つるも長安洛陽、天未だ曙けず。
贏は顚れ劉は蹶きて日没を趁い、
東海の一輪、旧に依りて出ず。

コレオ おいで リトリート 宵待草 バック レポーター デトネー ペラル なよろ ラファエロ タムシバ レーション かぜのよ フリンダ トーイン シナリオ セミコン ブザム サイド ノータ ノール フラット パワフ フリゲート ソナチネ ますか かでん ローデ あかだい ハーレム エーション バレリーナ ネオン テレビ クロミッ キウイ ワラチ 水色の 遠き旅路 グラス フロート ハバロ もろあう マアア キャパ ホマホ スコア バンビダ ワジナビ セゾン

2009年03月21日

契約獲得にあたって

契約獲得にあたって、フランス・ドイツによる欧州連合と組む台湾高鉄と、日本連合と組む中華高鉄とが競合したが、プッシュプル方式を提示した欧州連合の方がコストが安価であったこと、国際ビジネスに慣れていた欧州連合のセールスが早く、巧みであったこと、台湾側も対中関係を重視するクリントン政権下で戦闘機などが購入出来なかったため代わりにフランスから購入せざるをえず、フランスとの繋がりを維持する必要があったことなどから、台湾高鉄は契約を獲得し、軌道と機関車はドイツ製、客車はフランス製で設計が進められていた。

しかしアメリカがF-16戦闘機の売却に同意したこと、ICEが死者約100名・負傷者約80名という脱線事故(エシェデ事故)を起こしたこと、、1999年9月21日に台湾大地震が発生したが、欧州方式は地震に対する防御策が十分ではなかったことなどから、日本側が盛り返し始める。最終的に台湾政府は、台湾高鉄の協力先を早期地震検知警報装置(ユレダス)を導入していた日本連合に切り替えることに決定、最終的に車輌は日本、配電・制御は欧州、土木工事は国際入札という玉虫色の決着に終わった。このため欧州連合は、台湾高鉄に違約金を請求した。

事態が紛糾したのは、欧州と日本を推すグループが、それぞれ政治家と結びついた結果、民進党と国民党の政争が鉄道の場に持ち込まれたのが一因とされる。大まかに言えば民進党は日本と、国民党は欧州と結びつきが強く、契約成立時には国民党が与党であり、日本が契約に成功した時は民進党が与党であった。台湾や中国では鉄道建設は政治と強く結びついており、技術力の優劣だけでは契約できない事情がある。

以上の経緯にもかかわらず、欧州連合のコンサルティング契約、および、欧州連合が作成した仕様書はそのままであった。このことはスケジュールのみならず、全体的な足かせとなっている部分が否めないとの評価が日本の高速鉄道専門家からも出ている(事実、自動券売機はフランス製であったが、開業当日にトラブルを起こすなどの問題を起こしている)。また、台湾高鉄公司内の妥協策により、新幹線システムを導入しつつも運転技術指導は欧州の運転士が行う、という体制が採られた。

また、地下線路の台北?板橋間のトンネル工事も遅れ、2007年1月5日の開業に間に合わなかった。それ以外の中間駅についても、多くは中心市街地から離れたところに立地しているにもかかわらず、乗り換え交通手段の整備や営業準備が遅れている箇所がある。


年表 [編集]
1989年 - 構想浮上
1990年7月2日 - 交通部に「高速鉄路工程準備所」(高速鉄路工程局の前身)を設立
1991年10月8日- 行政院長郝伯村が第2ルート案採用決定を発表
1992年6月 - 行政院が高速鉄道を査定
1993年7月16日 - 立法院で高速鉄道建設案が通過、建設のための政府予算は削除され、民間による建設を決議
1996年 - 台湾政府、台北?高雄間約350kmの高速鉄道プロジェクトをBOT形式で建設運営すべく、事業者を募集
1997年9月25日 - 台湾高鉄(欧州連合)が中華高鉄(日本連合)を打ち破り優先交渉権を獲得、契約締結
1998年6月3日 - ドイツ・エシェデ近郊でICE脱線事故
7月 - 台湾高速鉄路連盟(優先交渉権後は台湾高速鉄路股份有限公司)、事業権契約を締結
1999年
3月26日 - 燕?總機廠起工
4月5日 - 嘉義で着工式典
9月21日 - 台湾大地震発生
12月28日 - 日本連合が優先交渉権を逆転獲得
2000年
3月1日 - 土木工程に着工
12月12日 - 日本連合が車輌等、機械・電力コアシステム契約の正式調印
2001年6月13日 - 日本連合が車輌を受注
3月 - E&M工事着工
2003年
1月23日 - 軌道工程に着工
7月17日 - レール敷設開始
2004年
1月31日 - 700T型車輌落成(川崎重工)
5月19日 - 700T型が神戸港を出港
5月24日 - 700T型が高雄港に到着、翌日陸上げ
2005年
1月27日 - 台南と高雄間において初の試運転(30km/h)
4月1日 - 120km/hの試運転達成 
8月30日 - 200km/hの試運転達成
9月8日 - 工期の遅れから、開業を2006年10月に延期すると発表
10月29日 - 300km/hの試運転達成
10月30日 - 315km/hの試運転達成
2006年
10月5日 - 台北?板橋、走行試験開始
10月24日 - 台中駅竣工。竣工式を行い、最初の供用可能な駅となる。
10月30日 - 左営車両基地で低速試験走行中の試験車両が安全装置の誤作動を起こし50cm脱線
10月31日 - 左営駅竣工
11月3日 - 嘉義駅、台南駅竣工
11月7日 - 新竹駅竣工
11月10日 - 桃園駅竣工
11月16日 - 板橋駅竣工
11月24日 - 検測作業車が営業線内で脱線
12月7日 - 内外関係者を招聘しての開業式典は、営業運転の準備、開業監査の過程などからキャンセル。
12月24日 - 交通部、最終監査結果を検討、合格とする。
12月26日 - 試験運転中にマグニチュード6.7の地震(2006年恆春地震)が発生、台南?左営(高雄)間で揺れを感知し自動的に停車。被害はなかった。
12月27日 - 交通部、営業許可を台湾高鉄公司に与える。
2007年
1月5日 - 板橋?左営、1日19往復の運行で仮営業開始
2月14日 - 台北?板橋、上り台北行きのみ仮開業。春節期間中の特別措置として、料金不要。
3月2日 - 台北?左営間、正式に開業・営業開始。
3月20日 - 電話予約受付開始
3月31日 - ダイヤ改正で上下計25往復に増発。
直達(板橋・台中停車)4往復増
直達快車(板橋・台中以南各駅)2往復新設
5月1日 - 台北?台中の航空路線が撤退
5月29日 - 台湾国籍の運転士6名(女性1名)が運転士養成試験に合格。
6月1日 - 2回目のダイヤ改正。上下計31往復に増発。
直達快車4往復増
区間車(台北-台中間各駅停車)2往復増
台北発を毎正時に。
台北-高雄間の所要時間が直達車は100分→96分、各駅停車は130分→120分にそれぞれ短縮される。
7月27日 ダイヤ改正で上下計37往復に増発
直達1.5往復増、直達快車0.5往復、各駅停車4往復、区間車1往復新設。
朝通勤時に直達車(104・105次)による緩急追い越しダイヤが初めて実現する。
8月10日 - 嘉義BRTで着工式典が行われる。
8月16日 - 台北?嘉義の航空路線が撤退
8月18日 - 台風上陸に伴い、18時ごろまで全面運休。18時以降各駅停車便のみ運行。翌日以降は平常運転に戻る。
9月14日 - ダイヤ改正でデータイムを中心に下り45本、上り46本に増発(直達車5往復、直達快車3往復、区間車0.5往復新設)。
9月24日 - 午前6時よりインターネットによる予約が可能に。
10月7日 - 台風上陸に伴い、前日と当日のチケット予約者を対象に日中の列車を全車自由席とする措置。
10月末 - 海苔巻き・サンドイッチの軽食の車内販売を開始(100元。指定列車のみ)
11月9日 - ダイヤ改正。下り57本、上り56本に増発。
台中以北が各駅停車、台中?左営がノンストップになる直達快車が新設される。
ほぼ終日にわたり緩急追い越しダイヤ(南下列車は台中で緩急接続)が実施され、運転時間帯も拡大される。
11月12日 - 自由席を導入(10-12号車)。料金は台北-左営で指定席の約7%割引である1385元。但し、2007年いっぱいは販促目的で2割引の1190元(台北-左営間)となっている。
11月15日 - 左営・台中駅と市街地を結ぶ無料シャトルバスを2ヶ月間限定で運行開始。(後に2008年末まで延長措置)
11月21日 - アジア野球選手権(北京五輪予選)と連動した野球応援グッズつき非接触型IC乗車券(自由席のみ)を2,000セット限定で販売。
11月21日 - インターネットでの予約期間を従来の「14日前から2日前まで」から「21日前から当日2時間前」に変更。
12月26日 - 自由席を指定席の2割引で販売する販促期間を当初の2007年いっぱいから2008年2月末まで延長することを決定。
12月28日 - 自由席を4両に増設(9-12号車)。
12月31日 - 2008年の春節期間中(2月1日-2月12日)に自由席は設けないことと、週末ダイヤで運行することが正式決定される。
ルーズ リング このゆび セラピー マンタ ドッグフ リルック プッシュ ファンド 水晶パート キバナ ピラフ 時の雫 ドリブル トポス ミキシング ちょぼく ラリアン ブログ タティック リューマチ アーミン ラクターゼ ヨットレ ロケア ファイユ ラケット きつおん タービン マドン アルカイ ナビタラワ ブレザー ブルジ オルグゴン トラン ナビロト スキルア クロニ スタン オーバ リスク ドック サイト スティッ きくま パシフ チルバ カツ上 カウボーイ

2008年
1月18日 - ダイヤ改正。曜日別ダイヤの導入に伴い、週末を上下63往復(金曜・月曜は60往復、平日火曜-木曜は57往復)に増発する。
直達快車が激減
毎時の直達-各駅停車の比率がほぼ2-2ダイヤとなる。
1月25日 - 桃園・新竹・嘉義・台南駅でも無料シャトルバスの運行を開始(嘉義は5月から有料)。
1月31日 - 嘉義BRTが全線開業。
3月1日 - 新割引制度開始。ビジネス席料金20%引き(台北、左営(高雄)間、2,440元から1,950元に)。優待票対象の子供や高齢者・障害者はさらに50%引き(975元)。このほかビジネス団体席を25%引き。2月で終了する自由席の販促を1割引で継続(台北、左営(高雄)間、1,340元に)。
遠東航空の台北-台南線、立榮航空の台北-高雄線が撤退。
3月9日 - 左営駅で接続する高雄捷運紅線が正式開業。
3月15日 - 3月31日から6月30日までの期間限定で、平日の乗車率向上を目的とした全車両(月曜から木曜日。ただし法定休日と休前日は適用外)2割引の販促と該当料金による予約を開始。対象期間中は普通車指定席で台北-左営(高雄)間で1,190元となる。自由席とビジネス席は既に始まっている期間限定割引との重複が適用されるため、同区間でそれぞれ1,070元、1,560元(優待票はこの限りではなく、通常料金または3月1日開始の割引料金からの半額割引となる)。
3月22日-23日 - 台湾総統選挙に伴う帰省ラッシュに合わせて3本(下り1本・上り2本、いずれも各駅停車タイプ)の全車自由席(ビジネス席除く)の臨時列車が運行される。1本は通常の運行時間帯を越えた台北着24:00のダイヤだった。
4月1日 - 台北(松山機場)-高雄間の航空路線が1日15往復に減便。
4月16日 - 高雄捷運紅線開業によるアクセス改善が達成されたため、左営駅発着の無料シャトルバスが運行停止。
4月19日 - 自転車・ペットの持ち込みが条件付きで解禁される。
5月1日 - 桃園国際空港-高雄間の国際線連絡便が8便から4便に半減。(エバー航空が廃止、中華航空は1日4便に減便。)
5月12日 - 遠東航空の経営破綻で国内航空路線の全便の運航がこの日で終了する。
5月16日 - 臨時ダイヤの定期化として、金曜日下りと日曜日上りをそれぞれ1本ずつ増発。
6月1日 - 台北-高雄の航空路線が2社で1日6往復に減便(その後、同月下旬に更に半減)
6月16日 - 自動音声ガイダンス方式での電話予約が始まる。(JRのプッシュホン予約と似た方式)
7月1日 - 3月31日から6月30日までの限定で行われていた割引料金が継続。
復興航空、台北-高雄線から撤退。
7月4日 - ダイヤ改正。週末を上下70往復(金曜・月曜は66往復、平日火曜-木曜は64往復)に増発する。
直達快車が激減
毎時の直達-各駅停車の比率がピーク時間帯は2-3、その他の時間帯もほぼ2-2ダイヤとなる。
台中-左營間の区間車が新設され、運転時間帯が深夜12時まで拡大される。
8月1日 - 台北-台南間の航空路線が消滅。(復興航空の撤退)
8月16日 - 華信航空、台北-高雄線を1日1-2便(週12→7便に減便)、9月末での撤退を民航局に届出。
8月29日 - エバー航空が傘下の高鐵と提携し、桃園国際空港の自社便出発旅客に限り台中・嘉義・台南・高雄-桃園間の高鐵料金を半額に割引くキャンペーンを3ヶ月限定で始める。
9月1日 - 華信航空、台北-高雄線を週3便に減便。
10月 - 日本連合(TSC:台湾新幹線株式会社)による開業後の運営サポート契約が満了
10月31日 - 台南沖を震源とするプレート型地震で台南を中心とした南部で日中計5回の地震を観測(最大M4.8)で、台南縣内では16:38ごろに最大震度4を観測。付近を走行中の3本の列車はユレダスにより直ちに停止措置が取られたほか、運行再開後の徐行などで、計35本の列車に最高63分の遅れが生じた。乗客の死傷者はゼロ。
11月1日 - 「双色割引キャンペーン」という新たな料金割引制度を実施。指定席料金は曜日、時間帯により6.5(オレンジ料金)割または8.5割(青料金)の販促が開始し、自由席料金は全額指定席料金の9.3割に戻る。対象期間中は普通車指定席で台北-左営(高雄)間で965元(オレンジ料金)、1,265元(青料金)、1,490元(通常料金)となり、普通車自由席で1,385元となる。時間帯により指定席料金が自由席料金より安いことは特徴で、ラッシュアワーと自由席の混雑解消を狙う目的も含まれる。
11月6日 - 午前5時に保守車両が台北駅南300メートルのポイントに乗り上げ、脱線した。事故の復旧するため台北-板橋区間に終日不通になった。
12月1日 - ダイヤ改正。各駅停車は下り1本、上り1本に増発。上り402列車(左営06:30発)は202列車に変更し、新竹、桃園は通過駅になり、従来より12分短縮。上り102列車(左営06:36発)は各駅停車402列車に変更。
チャイナエアラインが高鐵と提携し、桃園国際空港発着の自社便往復航空券での一部を除く国際線出発旅客に限り台中・嘉義・台南・高雄-桃園間の指定席料金を49-53%割引くキャンペーンを始める。

2009年03月06日

ガレー船時代の海戦戦術

ガレー船時代の海戦戦術(ガレーせんじだいのかいせんせんじゅつ、英:naval tactics in the age of galleys)は、古代からガレー船が帆船に置き換わった時期1600年代初期までの間の海戦の戦術である。

古代から中世の16世紀まで、海戦の武器は次のようなものだった。

船そのもの。敵船を打ち壊すために船首には衝角が装備されていた。
船員や戦闘員の刀槍に類する白兵戦用の武器。
飛び道具、すなわち舷墻に固定された石弓の矢、弩、弓矢、帆桁や柱から落とされる重石、敵船に火を付ける様々な手段:例えば火矢、あるいは管を使って吹き出すギリシア火薬(これはcannaeと呼ばれcannonの語源となった)。
ギリシア火薬については、液体状の焼夷剤とも伝えられるが、その詳細は明らかでない。また、中世ビザンティン帝国では火薬の使い方も知られていたと考えられている。14世紀に火砲が導入されたあとも、これらの飛道具の威力は貧弱であり、海戦はすべて接近戦が主体であった。

接近戦は、衝角を使って船をぶつけること(衝角戦術)と、敵船に乗り移ることにより戦われた。ただし、衝角戦術はオールで漕いで進む船でのみ可能で、帆船はよほど追い風を受けてなければ、ぶつけることができなかった。軽風では効果は少なく、風下からなど望むべくもなかった。

軍船の条件
艦隊は接近戦に頼るため、戦闘用の船には二つの条件が要求された。

船が小さく軽いこと。つまり船員がオール(櫂)で操れること。
船に多くの乗員を乗せられること。漕ぎ手として及び敵船への乗船、乗船してきた敵兵の撃退のための戦闘員として必要だった。
古代から中世にかけては、三段櫂船や他の軍船にも帆が存在した。これは通常の移動において、重労働である漕ぎ手の労力を軽減し、戦闘時の力を蓄えておくためである。 帆は戦闘中には巻き上げられており、安全な港が近くにあるときは戦闘前に取り外されることもあった。

上記の条件は紀元前5世紀のアテナイ提督フォルミオにも、10世紀のノルウェー王オーラヴ1世にも、また1571年のレパントの海戦における神聖同盟、オスマン帝国両軍指揮官の場合にも同様にあてはまった。それぞれのオールと帆の使う割合が多少違うだけである。

レパントの海戦地中海の外では、古代のフェニキア人やギリシア人、ローマ人らの操った船の系譜を引く長さ120フィート幅20フィートの細長形で軽いガレー船での航海は難しかった。しかし、バイキング時代に進歩を遂げたノルウェーのようなスカンジナビアの船の船幅は船長の3分の1であり、荒海を乗り切れたばかりでなく、軽くて喫水が浅いために漕ぐのも容易なら、海岸に乗り上げるのも容易だった。

中世の船の中にはかなりの大きさのものがあるが、これらは例外であり、多くは動きが鈍く軍船と言うよりも輸送船であった。軍船が中規模の大きさで乗員も多い場合、長期の航海に就いたり、文字通りの意味で海上封鎖に使うことは、古代や中世の提督達の力を超えたものだった。貿易に使う船は追い風を受ければ速度6ノット程度が期待できた(これはクック船長の航海における平均速度の倍である)。しかし、戦闘用艦隊は、長期の航海において乗員に必要な十分な水や食料を積載することができなかった。ガレー船を使っている限り、つまり18世紀半ばまでは、軍船はできる限り港に繋留され、漕ぎ手のためのテントを甲板の上に張っておくのが常であった。艦隊は補給を受けるために海岸に沿って航海する必要があった。

漕ぎ手に対しては主体的な戦闘能力も期待されていた。映画『ベンハー』に見られるような鎖でつながれた強制的な奴隷労働ではなかったと考えられている。

基地の確保
海岸には食料を蓄えたり、乗員が休息を取る基地を確保する必要があったため、大がかりな作戦行動の場合、準備に時間がかかった。また、敵を待ち構えたり港を監視する場合は、近くの海岸に拠点を確保し、軍船を引き上げて待機した。そのような拠点を確保することによりシラクサのコリント同盟はアテネ艦隊を捉えることができた。古代ローマはリリバウムの監視で同じことをやったが、ロードス島のハンニバルはローマ艦隊が出撃する前に海上封鎖を脱出した。ノルウェー人は船を海岸に引き上げ、柵で囲った上で内陸に進軍した。ホメロスの時代のギリシアも同様で、他にやり様が無かったと言える。1285年のルジェッロ・ディ・ラウリアは、フランス軍が見え通り過ぎるまで、ホルミガスの海岸にガレー船を止めて待った。1350年、イングランド王エドワード3世はスペイン艦隊が視界に入るまでウィンチェルシーに留まっており、レパントの海戦での神聖同盟軍は最後の瞬間までドラゴネラ近くに碇を降ろしていた。

隊形
冒頭で述べたように、海戦の戦いは接近戦であり、船をぶつけ、刀で斬り合い、石弓や弓で矢を交わし、鉄や鉛の塊を投げ合い、火矢を投げ合うものだった。このために艦隊の陣形や戦術は、戦闘に参加する者すべてに同じ様に影響を与えた。戦闘隊形は単横陣、つまり船がすべて船首を敵に向けて横に並び、全勢力が同時に戦闘にかかるものだった。船首をぶつけるのと同様に敵船に乗り込むのも船首からだった。もし船が船腹をくっつけあっていた場合は、オールにより飛び移ることを妨害されることになる。

戦術
船をぶつけるか、乗り移るかの判断は、漕ぎ手の技量に依存する部分がある。初期ペロポネソス戦争時には練度が高かったアテネ人は、主に衝角戦術を用いた。彼らは敵の戦列に突進し、敵船の片方の船腹にあるオールを削ぎ落とした。このやり方がうまくゆくと、帆船の帆綱を切ってマストを倒したのと同じような効果を生んだ。その結果攻撃した船は旋回して、動きの落ちた敵船の船尾に衝角で攻撃することができる。しかし衝角による攻撃は、その船が堅牢に造られていなければ大変危険であり、衝撃で衝角が壊れることもあった。アテネ人はこの危険性を承知しており、その三段櫂船の船首を強化して、より堅牢なアケメネス朝の船に立ち向かったが、その代わり船の動きは鈍くなった。
オーナー スキャン マカダミ プレリ トリニダード ジャタン ミヤコサ コビット ラトビア ギナー サイプ シャッフル ネイル ガイア コナ最適 ネバダ ナビミュ 猫物語 たてにしき オート セネガ フローズン スーパ 秋のメルヘン ゼルオー ハルツーム はっく ハードル イタリック サクセス シャーク シート ハイオ キッチュ ロール シアーズ アカマ ジルバ サーズ リバー テーマ ディアム クッパ ねこふん ノーモア フェーズ プレイ さかい ファイ ビタミン

実際に衝角による攻撃が成功するかは技術と幸運の組み合わせであり、多くの古代の海戦では衝角による攻撃は補助的な役割だった。ローマ人はカルタゴの衝角戦術に対抗するために「コルウス(corvus)」を発明した。これは敵船の衝角に引っかける鉤針をつけたはしごであり、敵船に乗り移る道を作った。しかしこの武器はあまり実践に用いられていない。なぜならば航海中はコルウスが邪魔になり、海が荒れた場合は常に艦隊を自殺行に追いやったからである。

14世紀に火砲が導入されると、火砲は主にガレー船の船首に据え付けられたため、船首が敵に接する前に火砲を発射することは悪いやり方だと考えられた。船首の衝突より前に発射すると、早すぎる発砲となる危険性があり、当時の火砲は再装填に時間がかかったからである。士官好みのやり方は、最後の瞬間に発砲して、乗り移るための進路を開くことであった。

中世には、乗り移りに対する防御策として、弱い船を僚船とつなぎ合わせ、オールとマストを用いて障壁を作ることが行われた。しかし、1000年のスウォルダーの海戦でのノルウェー王オーラブ・トリグヴァソンや、1340年のスロイスの海戦でのフランス軍がこの防御法を採用したが、側面からの攻撃に弱いという欠点をさらけ出してしまった。衝角による衝撃に対応するために、中世の船は「ひげ面 (bearded)」すなわち、鉄帯で船首の周りを強固に補強した。

古代に広く知られた海戦の戦術はビザンティン帝国からイタリアの海運都市国家へ、さらに西洋に広められた。

2009年02月14日

人妻戦隊アイサイガー

一見して、何処にでもいるOA機器の営業マン『守崎 直太朗』。彼は自他ともに認めるヅマスキー(人妻好き)男であり、半年前に結婚をしていた見掛けは平凡な男である。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

ある日、道端で拾った謎のカードケース。全て白紙ばかりだったそのカードに、次々と浮かび上がる絵柄。それは、若き日の直太朗が描いた同人誌『人妻戦隊アイサイガー』の姿だった。

人の快楽を糧に、使用者の妄想を現実化させる秘宝『オルガカード』。それが直太郎が拾ってしまったものの正体であった。

そのとてつもない力を狙って、『魔教星団ダラクーザ』が襲い来る。 このままでは地球は、堕落の快楽が支配する、広大な儀式の場となってしまうのか? 彼の愛妻『守崎 美紅』は、《直太朗さん好みの人妻になりたい》と言う健気な思いから、彼が夢想した人妻ヒーローになることを志願するのであった。

主人公の住む月野市を舞台としたストーリーは、原則として全てのバトルはカードバトルで行われる。マルチ・エンディングゲーム。

各ストーリーは一話完結式の、アドベンチャー+カードゲーム。 冒頭ストーリー→マップ移動等の探索→カードバトルの三構成になっており、勝てばそのまま話が進むが、負けると陵辱パートに以降。それでもゲームストーリーは進むので、プレーヤーの任意によって負けるも良し勝つも良し。

通常のカードゲームと同じくデッキ機能が存在し、プレイヤーはデッキの構築を行う必要がある。その為、第一周目プレイでは未収集カードによりゲームの進行(カードバトル)が困難となり、繰り返しのゲームプレイが必要となる。なお、一度集めたカードは次回ゲームスタート時には既に入手済みという扱いになる為、ゲームクリアを重ねるほどプレイが容易になる。

白紙状態のカードに、オルガシードという特殊なアイテムを使用する事によって絵柄が書き込まれる。デッキはアイサイガー1人に対して40?60枚のカードで構成。カードは1種類につきデッキ一つに4枚まで増やす事が可能だが、より強いカードの絵柄を描く為にはより多くのシードが必要となる上、敵を倒すには必ず必殺技カードを使用しなくてはならない為、カード収集を取るか、ゲームをクリアするのかプレイヤーの思案所である。 なお、カードバトルのカード名は全て、特撮やアニメのパロディばかりであり、元ネタを知っている人はニヤリとするのもある。

イベントパートはアイサイガーとなる人妻、場合によってはその他の人妻とのシーンが存在。その他プレイヤーがかかわらないイベントも人妻が多い。

何から何まで、人妻である。

直太郎が製作した同人誌『人妻戦隊アイサイガー』の具現化した装備を纏った人妻戦士。基本デザインは皆、エプロンである。

守崎 美紅(もりさきみく)声:柴田蕗
名乗り=『燃える炎の熱いバラ! サイガーローズ!!』
人妻分類=【新妻】
24歳。星林保育園で働く若手保育士。多少(というか相当)天然ボケであり、夫の趣味を知りつつも、愛する人の理想の人妻になるべく日々精進する文字通り理想の人妻像。
アイサイガーとして最初に覚醒。スピード戦法を得意とする炎の戦士。武器は出刃包丁を具現化した【デバ=セイバー】
菱堂 藍胡(ひしどうあいこ)声:まりもりん
名乗り=『流転の水に咲くアヤメ……サイガーアイリス!』
人妻分類=【子持ち】
36歳。事故で車椅子生活を負った夫を献身的に支えている主婦で二人の子持ち。一見してきつい性格をしており、当初はアイサイガー参戦を快く思っていなかった。夫と話している時は関西弁になる事から、生まれは関西と思われる。
二番目に覚醒。アイサイガーの参謀役を務める策士であり、敵の戦法を冷静に分析し、流水の如く攻撃を受け流す。武器は全自動洗濯機を具現化した【ビート=ウォッシャー】
ソフィー・アンドレア・雪籐(ゆきとう)声:黒崎猫
名乗り=『悪が吹き飛ぶ百合の風! サイガーリリー!』
人妻分類=【シスター+未亡人】
30歳。修道院で住み込みで働いているシスター。見習いシスターの時期に日本人の夫と国際結婚。既婚者である為正式なシスターではないが、修道院の皆から慕われている。
三年前、警察官だった夫はとある事件で殉職。彼が命をかけて守った『正義』の意味を知りたくて、アイサイガーに志願した。美紅とタメをはれる大ボケで、普段はぽやんとしているが、命の尊さを何よりも大切にしている。
アイサイガーのムードメーカーで、如何なる悪も吹き飛ばす。武器はサイクロン掃除機を具現化した【サイ=クリーナー】
アイサイオー
名乗り=『鋼鉄(はがね)の人妻 アイサイオー』
人妻分類=【巨大ロボット】
アイサイガーが搭乗する女性型巨大ロボ。直太朗の頭の中に構想だけはあったが、デザインが存在しなかった為に具現化しなかった。
必殺技は【妻王剣・人妻千人斬り】

人妻戦隊を取り巻く人々
守崎 直太朗(もりさき なおたろう)
主人公。
25歳。未成年の頃から人妻好きで、妻である美紅と出会った理由も母親である風見子目当て。
『オルガカード』にイメージを投影できる特殊才能の持ち主である『造影者(プロジェクシャン)』。『オルガシード』もまた精製できるがその為には…
完全な全身像は存在せず、シルエットまたはぼかしがかかっている。(一応、カードバトルのカードで似顔絵らしきものはある)
千葉 風見子(ちば ふみこ)声:平野響子
人妻分類=【義母】
42歳。美紅の母で直太郎の義母。夫が長期海外出張中なので近所の娘宅によく遊びに来る。娘と違って料理は上手い。おっとりとした性格だが、笑いながら人を責めるサディスティックな一面も……。夫とは同級生で学生結婚。壮絶なるラブラブ夫婦。
雪藤 行夫(ゆきとう ゆきお)
ソフィーの夫で故人。警察官であったが、ある事件で人質をかばって犯人に刺され殉職した。彼の信じた「正義」がサイガーリリーに受け継がれることとなる。
橘 くるみ(たちばな くるみ)声:平野響子
修道院で、ソフィーと同室のシスター見習い。彼女のことを「お姉さま」と呼び、憧れ以上の秘めた思いを抱いている。
菱堂 一輝(ひしどう いっき)
31歳。藍胡の夫。元プロボクサーだったが、試合中の事故で下半身不随となり引退。現在は車椅子生活を余儀なくされ、リハビリに励んでいる。
パンネルド・コーネリアス13世 声:児玉さとみ
通称「パン猫」。オルフィー星の王家に代々仕える従者で、外見は地球の猫にそっくり。一旦は、ジセル王妃とともにダラクーザに囚われるが、『オルガカード』を持って地球に逃走。そこで直太朗と出会ったことがすべての始まりとなった。
ジセル・オルフィーリア 声:みすみ
人妻分類=【未亡人+貴族】
地球人年齢で38歳。惑星オルフィー・オルフィーリア王朝の王妃。直太朗と同じく『造影者(プロジェクシャン)』である為生け捕りにされ、『オルガカード』の透写を強制されている。王である夫は殺害、唯一の王子である息子は現在行方不明。
滝腰 ひろみ 声:鉄滝次
通称「ジャイゴン」。インターネット喫茶『KASS(カス)』の店主で、乳に異常なほどのこだわりを持つ「乳スキー」である。直太朗とは大学時代からの腐れ縁。

[魔教星団ダラクーザ
宇宙を股にかける邪教集団。教義は《親を殺し、子を棄て、獣と交われ》。カルトでありながらも、全宇宙に10万人以上の信者がいる。闇教祖ダラクーザを筆頭に、4人の幹部で構成される。信者は「クーザ・ダラクーザ!」と叫ぶことで、忠誠を示す。

闇教祖 ダラクーザ
全宇宙征服を夢見る、魔教星団の教祖。ある儀式を行うため、地球に魔の手を伸ばしてくる。
獣将 ザンディック 声:鉄滝次
ダラクーザ4幹部の一人。根っからのサディストで、気の強く反抗的な相手を徹底的に陵辱することを好む。サイガーアイリスに強い執着を示す。
瘴婦 ヴィズネラ 声:児玉さとみ
ダラクーザ4幹部の一人。毒や薬のエキスパートであり、自身はほとんどの薬に耐性を持っている。清純で貞節な女性を強く嫌悪し、そのような女性を快楽によって堕落させることを至上の喜びとしている。サイガーリリーに強い執着を示す。
脳神 ケミファ 声:マジック
ダラクーザ4幹部の一人。幼いころから闇教祖ダラクーザに育てられ、彼に対して妄信に近い忠誠を誓っている。『オルガカード』を基に、全く同じ性能のレプリカを作り出すなど、優秀な科学者であり、儀式の一切を取り仕切っている。
剣姫 リジェンヌ 声:阿倉優
ダラクーザ4幹部の一人。戦闘民族ヤパームの姫だったが、父がザンディックに一騎打ちで敗れたため、ヤパームの掟に従いダラクーザの配下となった。他の3幹部と異なり弱者を傷つけることを好まず、オルガシード収集(=陵辱)にも加担しない。強い敵との戦いを好む生粋の剣士であり、アイサイガーの中で最も戦闘力の高いサイガーローズに強い執着を示す。
イドー怪人
ケミファが作った『オルガカード』のレプリカに、ジセル王妃の恐怖と快楽を造影することで生まれる怪人。地球におけるオルガシード収集の実行部隊であり、アイサイガーが直接カードバトルをする相手である。
シタッパー
その名の通り、下っ端戦闘員。「イギー」としかしゃべれない。
『オルガカード』
惑星オルフィーの王家に代々伝わる秘宝。『造影者(プロジェクシャン)』と呼ばれる能力の持ち主の想像する物を具現化する力を持つ。具現化には能力者が生み出す『オルガシード』が必要不可欠。
当初から全ての枚数がそろっているわけではなく、何枚かは魔教星団の元にあり、怪人を倒すことで回収できる。カードは全100種類、デッキに同種類を4枚精製可能な事から、枚数は少なくともで300枚はあるが総数は不明。
『人妻戦隊アイサイガー』
直太郎が高校生時代に書いたオリジナル同人誌。長らく執筆は止まっていたが、魔教星団との戦いを機に再び想像を開始する。
『惑星オルフィー』
物語の発端となったオルガカードが安置された惑星。宇宙制覇をもくろむ魔教星団によって壊滅状態に晒される。

2009年01月28日

セイロン沖海戦

セイロン沖海戦( - おきかいせん)とは、1942年4月5日から4月9日にインド洋のセイロン島沖で日本海軍の空母機動部隊とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた海戦。連合軍側の呼称はインド洋空襲(Indian Ocean raid)。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

背景
日本
3月9日、日本軍はジャワ島を攻略し、第一段作戦(南方作戦)の主な作戦目的である南方資源地帯占領は想定より早期に終了、作戦もビルマ方面をのぞき最終段階にあった。第二段作戦の検討は始められていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まらない状態であった。

1941年12月のマレー沖海戦で大損害を被ったイギリス海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにツリンコマリー(Trincomalee)軍港に退避していた。しかし、本国艦隊からの増援を受け戦艦5隻空母3隻の大艦隊となっていた。日本軍の最大の敵はアメリカ太平洋艦隊であったが、日本にとりインド洋のイギリス海軍は日本への資源供給地となったオランダ領東インド(現在のインドネシア)の安全を脅かす存在であった。

この状況において、虎の子の空母機動部隊(第一航空艦隊基幹の南雲機動部隊)をインド洋に転用し、戦力の復活しつつあったイギリス海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのが、インド洋作戦である。しかし、作戦を行う現地の状況がほとんどわからない状態で行われたこの作戦は、作戦目標もあまり明確でなかった。

連合国
一方、連合国はイギリス軍が従来よりコロンボを拠点として艦隊現存主義をとってビルマ方面に進攻する日本軍に睨みを効かせていた。連合軍から見て、日本軍は広い行動選択の自由を持っており、次の侵攻が何処に対して行われるかを特定するのは重要な問題であった。イギリス首相ウィンストン・チャーチルはダドリー・パウンド第一海軍卿より3月8日にはセイロンが脅威に晒されていると言う情報を受け取っていた。この問題に対処する為イギリス海軍は東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代する人事を行い、インド洋に展開する艦船の集結・ラミリーズ、ロイアル・ソブリン等の増派をはじめた。サマヴィルは27日にウォースパイトに将旗を掲げた。

イギリス軍は当時コロンボにあった極東連合部(FECB)という組織により、通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており、日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い、地点符号の特定に成功した。これにより3月22日には4月1日にセイロン島を攻撃する予定である事を知った。サマヴィルは待避の為30日にコロンボから艦隊を出港させインド洋西部、モルジブ諸島のアッズ環礁に向かわせたが、日本艦隊の規模は不明であった。彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合、それへの対処は絶望的であるとし、中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響を与えるというものだった。そのため、規模の大きくない攻撃にのみ対処する為、艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり、艦隊現存主義を維持する方針が決められた。

戦闘経過
3月26日、スラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾から出撃した第一航空艦隊は、オンバイ海峡を通過しジャワ島の南方よりインド洋に入った。そして1942年4月5日コロンボ南方200海里に進出し、艦載機180機でコロンボを空襲した。コロンボ周辺の天候はあまり芳しくなかったが、攻撃隊は、迎撃のイギリス戦闘機を排除しつつ港湾施設と飛行場を攻撃し、駆逐艦テネドスと仮装巡洋艦ヘクターを撃沈した。また攻撃途上で、イギリスの雷撃機隊と遭遇し、数十機撃墜を報じた(イギリス側記録6機喪失)。しかし、攻撃隊に巡洋艦発見の報が届き、港湾には東洋艦隊の主力は存在せず、小型船を除くと目標が乏しく概に攻撃が完了していたこともあって撤退した。

イギリス軍の問題点は色々あったがその一つにリヴェンジ級戦艦など旧式艦の航続力・真水が作戦期間を支えるに十分ではない事があり、4月2日には戦艦群が帰港を具申していた。また、リヴェンジ級戦艦の速力は遅かったので東洋艦隊は2つに分けられA部隊とB部隊と名付けられた。A部隊は空母2隻とウォースパイト、コンウォール、エメラルド、エンタープライズを主力とし、B部隊はリヴェンジ級戦艦4隻と他の巡洋艦を主力としており、駆逐艦はほぼ均等に配分された。B部隊の指揮は次席指揮官アルガノン・ウィリス少将がとった。

暗号解読は上記のように行っていたもののそれは完璧ではなかった。依然として日本軍の動きがつかめず、誤報・作戦延期の可能性も考えられた。しかし真珠湾の二の舞を恐れたサマヴィルは2日、艦隊主力をアッズ環礁に待避の方針を堅持し、改装工事中急遽出撃したドーセットシャーにコロンボでの工事再開を命じ、その護衛に8日到着予定の船団護衛を控えたコーンウォールをつけた。また、ハーミーズにツリンコマリで5月に予定されているフランス植民地のマダガスカル島攻撃準備をなすように命じた。

ドーセットシャーとコーンウォールは5日の午後、南雲機動部隊に発見され、江草隆繁少佐率いる九九式艦爆隊の急降下爆撃により撃沈された。南雲機動部隊は南東に退避した。

5日15時30分、サマヴィルは敵艦隊が北方100マイルにあるとの報告を受けていた。上記のように東洋艦隊は日本軍に対して交戦を企図しているように見せかけながら、実際にはそれを避けると言う難しい方針の下にあった。そのため、雷撃機による夜襲を行うため索敵を行っていた。18時17分敵機発見の報があり艦隊は北西に針路をとった。A部隊とB部隊は6日の払暁に合同し、針路を南東に向けた。この時点では日本艦隊がアッズ環礁まで追撃をかけてくる可能性を考慮していた。この日の夜、本国の海軍省は電報を送り、東洋艦隊の増強圧力が日本軍に対して効果を持たなかった事が明らかになったと告げた。その後もセイロン?アッズ間に居るとされた日本艦隊を避けるため、東洋艦隊は索敵警戒を行いながら迂回航路を取って8日23時にアッズ環礁に入り、燃料補給を行った。日本側も索敵は行っており、5日から8日にかけて日英双方が互いを捜し求めたが、接触することはなかった。

イギリス側の方位測定班は8日朝、赤城の符丁を観測した。15時17分、カタリナがセイロン島東方400マイルに敵艦隊を認め、この情報によりツリンコマリーの艦船は脱出を始めた。9日、南雲機動部隊は再びセイロン島北部のツリンコマリーを空襲した。攻撃隊は飛行場と港湾を強襲し、迎撃機のほか飛行場の地上機、港湾施設を破壊したが、在泊の輸送船数十隻には攻撃がまわらず、「第二次攻撃の要あり」と打電した。しかし、攻撃隊の帰投中に「空母一、駆逐艦一、南下中」と発見の報告が知らされた。これは再び退避中のイギリス空母ハーミーズであった。山口多聞は「攻撃隊発進の要ありと認む」と赤城へ信号を送った。しかし、これは容れられず、兵装転換がなされ、第二次攻撃隊に用意されていた艦爆隊67機が出撃した。

この間、イギリス空軍の爆撃機ウェリントン9機が南雲機動部隊を奇襲攻撃した。このとき日本側ではツリンコマリー攻撃から第一次攻撃隊が帰還しており、これもハーミーズ攻撃に向かわせるべく補給を行い、攻撃機に魚雷を積んでいる最中だった。イギリス空軍機は赤城を狙って編隊爆撃を行い、投下された爆弾は挟叉したものの命中しなかった。日本軍は直掩戦闘機隊により爆撃機5機を撃墜したが、対空砲火で戦闘機1機が撃墜された。

空母ハーミーズとオーストラリア駆逐艦ヴァンパイアは逃走を試みたが、間もなく艦爆隊に発見され撃沈されたほか、同じく退避中のタンカー2隻とコルベット、ホリホックも撃沈された。なお、ハーミーズは修理中だったため、搭載機は陸上基地に展開していた。

日本海軍は下記のようにイギリス東洋艦隊を後退させはしたものの、その主力の撃滅には失敗した。ただし、佐藤和正は「予期していた以上の大成功」だったと述べている。連合軍がこの攻撃が一過性のものであり、コロンボの占領を目的としたものではないと知ったのは戦闘の後になってからだった。

ベンガル湾作戦
第一航空艦隊のインド洋進出に合わせて、第一南遣艦隊(いわゆる馬来部隊)も行動を開始していた。この目的はインド洋→ベンガル湾→カルカッタに至る通商路を攻撃する事で、ビルマ方面の連合軍を牽制し、アンダマン諸島への反攻企図を阻止することにあった。

馬来部隊は下記の3隊に分けられ、通商破壊に努めた(艦種については戦闘序列等を参照)。後年批判の目で見られることが多い栗田健男少将も第七戦隊司令官として参陣している。

北方隊:熊野 鈴谷 白雲
中央隊:鳥海 由良 龍驤 夕霧 朝霧
南方隊:三隈 最上 天霧
馬来部隊は4月9日まで攻撃に当たり、23隻を撃沈した。このうち4月6日は航行中の商船を次々と攻撃し21隻、137,000トン撃沈、その他8隻大破という空前の大戦果を挙げている。撃沈した21隻について各隊別の内訳は下記の通りである。これにより、インド東部沿岸の通商路は一時完全に遮断された。

北方隊:商船8隻
中央隊:商船8隻
南方隊:商船5隻

潜水艦作戦
南方部隊指揮官近藤信竹中将は3月14日に発令したインド洋機動作戦要領の中で、丙潜水部隊に対してもセイロン西方海面の哨戒と通商路攻撃を指示していた。これによっても商船数隻を撃沈破した。4月10日の第二段作戦第一期兵力部署が発動され、丙潜水部隊は先遣部隊に戻され、本土に向かった。以後、新設の第八潜水戦隊などがインド洋に展開することとなる。

影響
コロンボ基地並びにツリンコマリー軍港を破壊された東洋艦隊はセイロン島、アッズ環礁のいずれも危険であると判断、A部隊をボンベイに、B部隊を船団護衛のためモンバサのキリンディニ港に向かわせた。インド洋東側での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。英国艦隊の主力が避退していたため大きな戦果は上げられなかったものの、この攻撃によって英国はインド洋方面における日本海軍への評価を高め、大戦末期に至るまで同方面で積極的な行動に出られなかった。戦略的な効果という面からこの海戦のもたらした意義は大きい。作戦終了後、南雲機動部隊は内地に帰還した。途中、第五航空戦隊はMO作戦の為珊瑚海に分派された。

南雲機動部隊はハーミーズに対する攻撃の際、艦爆隊を攻撃に送ったが、その急降下爆撃は45機が投弾に成功し、命中弾は37発にものぼった。ハーミーズに対する内訳は下記の通りである。

ハーミーズに対する攻撃成果 赤城 艦爆隊 投弾2発 命中2発
飛龍 艦爆隊 投弾11発 命中9発
瑞鶴 艦爆隊 投弾14発 命中13発
翔鶴 艦爆隊 投弾18発 命中13発

このためまだ投弾を終えていなかった機体は周囲の艦船を目標とした。その結果駆逐艦バンパイアー、哨戒艇ホーリー、商船2隻(タンカー)を撃沈した。これらに対する命中率は下記の通り。

バンパイアー:投弾16発、命中13発
ホーリー:投弾6発、命中1発
大型商船:投弾12発、命中11発
小型商船:投弾6発、命中5発
攻撃全体での母艦ごとの命中数は下記の通りである。

セイロン沖での攻撃全体の成果 赤城 艦爆隊 投弾17発 命中17発
蒼龍 艦爆隊 投弾18発 命中11発
飛龍 艦爆隊 投弾18発 命中13発
瑞鶴 艦爆隊 投弾14発 命中13発
翔鶴 艦爆隊 投弾18発 命中13発

急降下爆撃の成功率は熟練搭乗員でも25パーセントとされている。南方作戦支援時にセレベス島ケンダリー基地での訓練の効果も相まって、その時点の日本海軍航空隊が恐ろしいほど高い技量を持っていたことを証明するものである。梅野和夫はこの他に、気象条件、攻撃隊指揮官の指揮、敵に回避の時間を与えなかった事が要因として挙げている。

また、当時の日本海軍の急降下爆撃法は単縦陣となって順次急降下して投弾していく方法であった。この方法は先頭機の着弾を見て後続機が照準を修正できるため命中率が上がりやすい反面、編隊が必ず同じ場所を通るために対空砲火の餌食になりやすいという致命的欠点があった。従って後の南太平洋海戦等で急降下爆撃隊が大損害を蒙ったのはこの戦法にも一因があるといわれている。戦争後期になると、日本軍もアメリカ軍と同じく、編隊が一斉に急降下に入る一斉急降下爆撃法に変更することとなった。この方法は命中率は落ちるが対空砲火が分散しやすく生存率が高い。

しかし、後の目から見て、この海戦で機動部隊の弱点を感じさせる場面があり巷間指摘される。偵察が不徹底であった事、上記のツリンコマリー・イギリス艦隊攻撃の際に兵装転換を行い迅速な攻撃を行わなかったこと、第一航空艦隊がイギリス空軍機の接近に気づかず、赤城が攻撃換装中にウェリントン9機に空襲されたことである。日本海軍はこれらの教訓を生かせず、後にミッドウェー海戦でも同じミスをし大敗北を喫する事になる。

また、淵田美津雄は当時よりインド洋での作戦自体に不満を抱いていた。淵田の持論は戦力の回復していない太平洋艦隊主力を早期に撃滅することであり、そのために再び真珠湾攻撃のような積極攻勢を早期に実施することを望んでいた。一つ作戦をこなす度に神業を持つ熟練搭乗員が少しずつ失われ、見慣れぬ新人が配乗されてくる状況をつくった上層部に対し苦々しく思っていたという。

本作戦は第一段作戦、南方作戦に付随した最後の作戦にあたる。以後、日本海軍は第二段作戦に短期決戦と米豪遮断作戦を並行して推し進め、インド洋方面では海軍による大規模攻勢は行われることはなかった。インド洋では、小規模な潜水艦隊で、仏領マダガスカル島のヴィシー・フランス軍とイギリス軍の間で行われたマダガスカルの戦いに参戦し、イギリス海軍艦艇を撃沈するなど、イギリス連邦の通商遮断作戦を行っている。

戦闘序列
日本軍
「加賀」は2月9日にパラオで座礁したため参加していない。また金剛型戦艦が4隻とも参加している。

第一航空艦隊
司令長官:南雲忠一中将

第一航空戦隊 - 航空母艦:赤城
第二航空戦隊 - 航空母艦:飛龍、蒼龍
第五航空戦隊 - 航空母艦:翔鶴、瑞鶴
第三戦隊 - 戦艦:金剛、比叡、榛名、霧島
第八戦隊 - 重巡洋艦:利根、筑摩
第一水雷戦隊 - 軽巡洋艦:阿武隈
第四駆逐隊第二小隊 - 駆逐艦:萩風、舞風
第一七駆逐隊 - 駆逐艦:谷風、浦風、浜風、磯風
第一八駆逐隊 - 駆逐艦:陽炎、不知火、霞、霰

第一南遣艦隊
司令長官:小沢治三郎中将

重巡洋艦:鳥海、軽巡洋艦:由良
第四航空戦隊 - 航空母艦:龍驤、駆逐艦:汐風
第七戦隊 - 重巡洋艦:熊野、鈴谷、三隈、最上
第二〇駆逐隊 - 駆逐艦:夕霧、朝霧、白雲、天霧
第三水雷戦隊 - 軽巡洋艦:川内
第一一駆逐隊 - 駆逐艦:初雪、白雪、吹雪
第一九駆逐隊 - 駆逐艦:磯波

連合軍
当時既に戦没していたロイヤル・オークを除くリヴェンジ級戦艦が全艦参加している。

東洋艦隊
司令長官:ジェームズ・サマヴィル(en:James Fownes Somerville)中将

正規空母:インドミタブル、フォーミダブル
軽空母:ハーミーズ
戦艦:ウォースパイト、レゾリューション、ラミリーズ、ロイヤル・ソブリン、リヴェンジ
重巡洋艦:コーンウォール、ドーセットシャー
軽巡洋艦:エンタープライズ、エメラルド、ダナエ、ドラゴン
オランダ軍軽巡:ヒームスカーク
駆逐艦:テネドス、他14隻
オランダ軍駆逐艦:1隻
艦載航空機:93機(雷撃機57機、戦闘機36機)
基地航空機:約90機

損害
日本軍
零戦4機、九九式艦爆10機、九七式艦攻2機喪失。

連合軍(イギリス軍)
軽空母ハーミーズ、重巡コーンウォール、ドーセットシャー、駆逐艦ヴァンパイア、テネドス沈没喪失。基地航空機喪失約50機(イギリス軍記録:27機以上喪失)。

『丸スペシャル 95 蘭印攻略作戦 インド洋作戦』1985年
インド洋作戦関係は佐藤和正、梅野和夫が執筆。写真多数掲載。ベンガル湾作戦、潜水艦作戦、艦爆隊の命中率の出典はこれによる。
福田誠、伊藤健太郎、牧啓夫、石橋孝夫「第1章」『太平洋戦争海戦ガイド』 新紀元社  ISBN 4-8831-7230-9(1994年)
ジョン・ウィントン著 左近允尚敏訳「第二章」『米国秘密情報文書ウルトラin the パシフィック』ISBN 4-7698-0738-4 (邦訳初出1995年)
連合軍側、特に情報戦関連の記述は本書による。